燕 第九話:想い
第一節―――――
ユイは目を覚ました。「(ここは・・・?)」
朦朧とする意識の中、辺りを見渡す。見慣れない、かすかな灯りしかない薄暗い部屋。「(そっか・・・私・・・)」
ユイの意識と視界が少しずつはっきりするにつれ、思い出す。一番新しい記憶では・・・路で香月屋の女性と出くわし戦闘になり・・・。「(負けて・・・。)」
ユイの意識ははっきりとした。そして今の自分の立場を理解した。口には猿ぐつわが、両手首が頭の上で縛られており、両足首も縛られている。その上装束はぼろぼろに引き裂かれ、体のあちこちに刺された傷があった。特に壁に押し付けられている背中の傷が嫌に染みる。はっきり言って、惨めな、哀れな姿だった。心身共に傷つき、ユイは逃げることも悔いる力もなかった。ただ目をつぶった。そして覚悟を決めようとした。ただ未練が一つ。「(燕・・・)」
「はぁ・・・はぁ・・・!」
燕は駆けた。駆けるのなら問題はなかった。忍になる前も、忍になってからも駆けた。だが今、この時は何かが違った。「(焦り・・・?)」
燕は自問した。そして見つけた。とっさに反応して跳ぶ。既にユイとはぐれて一刻が経つ。辺りは暗くなり、燕は装束のままユイを案じて外へ出た。燕は地面に刺さったユイが変装用に使う着物の裾を見つけた。目の前で見てみるとこれは酷いものだった。おそらくユイは戦闘時これを捨てたのだろうが、その前に奇襲を喰らったのだろうか、裾は真っ赤に血で染まっていた。
燕は手を伸ばそうとしたが手が伸びない。燕の顔に不安の表情が現れ始め、焦燥感が整えようとしている呼吸を困難にする。裾の赤い部分から察するに、ユイは腹の辺りを斬られたことがわかる。出血量からして致命的というほどではないが決して軽傷だとは思えなかった。焦燥感が強くなる。燕は手を伸ばし、裾を地面に突き刺している、先程から燕に不安を与えていたクナイを抜き取った。手は震えていた。故にクナイに手が届くなりそれを勢いよく抜いた。
クナイは燕達が使うものよりも細長く形状の違ったものであり、殺傷力が強いものだ。すなわちユイ以外の誰かが使用したことになる。クナイをしまい、燕は裾を恐る恐る手に取った。血の色、感触、見慣れた、ユイのものだった。「(うっ・・・!?)」
燕は高鳴る鼓動から片手で胸を抑えた。「(焦り・・・?)」
そう己につぶやいたが実際違った。それは燕が今まで二度も経験したあの感覚、あの恐怖であった。
―冬月亭・地下―
「きゃあっ!!」
ユイは叫んで口からどっと血を吐いた。
「あら?この程度で叫ぶの?ひ弱い忍だね、アンタ。」
忍装束姿の神無が言った。その長い脚がユイの肩にかかとを決めていた。「今ので肩が脱臼したな。」
神無はそう言って脚を下ろした。「勘違いするな、趣味じゃない。頼まれただけだ、アンタの自由を少し奪っておくようにと。まぁ、個人的な恨みはあるんだけどね。」
そう言って神無はユイの額を掴みその頭を壁に押し付けて尋ねた。「アンタだろ?この間香月屋を殺したのは。そうだろ?」
訴えかけるその鋭い眼差しは、神無がその答えを待ちわびていたことを思わせる。ユイは呼吸を整えよとするが、神無はそれを許さない。膝蹴りをユイの腹に決め叫ぶ。「そうだろ!ぁあ?答えな!」
ユイは疲れ切った顔色で小さくうなずいた。神無はどこか血迷ったような、しかし少し救われたような表情をしていた。だが急に怒りの形相をあらわにし尋ねた。「じゃあ・・・私の・・・あの子を殺したあの女は!?あの小娘は誰!?」
―翌日明朝・「巣」・イスカの間―
「誠か!?」
百舌が叫んだ。リュウは静かにうなずいた。百舌は厳しい表情で考え込んだ。
「リュウ、燕を一人にするな。今すぐ戻って現地で調査に当たれ。」
イスカが鋭く伝えた。「それとセイ!」
イスカが顔の向きを変え、声を上げるとセイは素早く紙を取り出した。
「はい!」
いつもにない鋭い声と真剣なセイ。「これが、冬月亭を建てた者から手に入れた見取り図です。ここには記されていませんが、この階段」
セイは見取り図の一角を指差した。丁度リュウが戦っていた庭の傍であった。「ここは地下につながっており、もし捕らえられているとしたら・・・。」
そこでセイは口をつむんだ。「失礼しました・・・。」
「気にするな。」
イスカは答えた。「この状況からして妥当な判断だ。皆、覚悟して当たれ。最悪の事態を想定していろ。そしてあまり出すぎた真似はするな。これ以上面倒な事態にするなよ・・・いいな!」
「承知!」
リュウとセイが鋭い返事を返した。
「・・・承知。」
一人、端で黙って膝をついて聞いているガクも、重みのある声で答えた。
―第二節―
―冬月亭・地下―
足音を聞きつけ、ユイは意識を取り戻した。思い出してみれば昨晩、神無に尋問され、燕について答えなかったためあの後もこっぴどく暴行された。おかげで気を失うことも眠ることすら許されず、ただひたすら朦朧とする意識の中体中がずきずきし、足が腫れ、気分は最悪だった。だが、捕まった以上、また『忍』である以上ユイは覚悟を決めるつもりでいた。足音。また暴行されるのだろう、もしくは、命を・・・。ユイは目を閉じた。錆びた扉が嫌な音を立てて開き、二名の足音が聞き取れた。足音の重さからして男だと推定できる。次に聞こえた音に、ユイは眉を細めた。刃が抜かれる音だった・・・。「(燕・・・もう、私も貴方も戻れないの・・・?)」
刃が近づく。そして何かが斬れた瞬間、ユイは大きく目を見開いた。ユイの装束の帯がさらっと斬れて地面に落ちた。目の前の男達二人は笑いながら刀をしまうとユイの装束に手をかけ、上の装束を脱がした。白い衣があらわとなり、次は腰に手を回され、袴の紐を解かれた。腫れて血で染まりつつも細長く生々しいユイの脚が露出した。
「むぅ・・・!」
途端にユイの頭と心は焦燥に支配された。体中が熱くなり、頭の中は真っ白、顔は真っ赤になった。叫ぼうとするものの、猿ぐつわで縛られ声にならない。地下にただ聞こえるのは男達の笑い声だった。
「さて、忍ってのはどこまで耐えられんのかな?」
そう言われて初めてユイは驚くほど焦っている自分に気がついた。自分がこれまでになく焦り、同時に恐怖を感じていることに。『忍』として、あらゆる苦痛も耐え、死も覚悟していたつもりなのに、私情は捨てるつもりであったのに・・・。強い、強くなりたいと思っていたのに・・・。ユイは己の未熟さと哀れさに歯を食いしばって涙した。だが次の瞬間、ユイの頭は壁に押し付けられた。
「(いやっ・・・!)」
前を見ると男が顔を近づけてきていた。ユイは目をつぶった。だが今度は覚悟を決めているのではなかった。涙目で心の中で叫んだ。「(リュウさん・・・!・・・・・・ガク!)」
そしてユイの唇に冷たい感触が通った。しばらくの沈黙が流れ、ユイが目を恐る恐る見開くと、彼女の唇に刀の峰が触れていた。同時にもの凄い殺気をそのとき初めて感じ取った。刃はユイと男の目の前で止まっていた。左へと刃の出先を見るとそこには印象強い、青みのかかった美しい黒髪があった。
「て、てめぇは・・・!」
ユイに接近していた男が沈黙を割って声を出すと、それが合図であったかのごとく水無月は手首を回して刀の逆刃で男の顔面を殴りはらった。
「はあぁぁ!!」
水無月は思いっきり振ると、刀から男の鼻血を血飛ばしした。「貴様等、一体何をしている?」
怒りの形相で水無月がもう一人を睨んで言った。男達は腰を抜かして答えることができなかった。なぜなら彼等も前日水無月に集団で負けたうちの一人であったからだ。「フン、」
水無月は振り返ると胸に手を入れ、拭き物を取り出し、刃を拭き始めた。「大丈夫か?」
表情を和らげて水無月はユイに問う。彼女はユイの口を縛っていた歯止めを外した。
「貴方が・・・ここに・・・?」
ユイは低い声で言った。それは安堵ではなく失望と言っていい気がした。水無月の背後で男が立ち上がる音がした。
「貴様等、去れ。次は容赦せんぞ。」
水無月が顔だけ向け言うと男達は一歩ずつ、扉の方へと後づさった。
「何故、ここに・・・?」
ユイが水無月に問いかけたそのときだった。先程鼻を折られた男が通り過ぎる際に立ち止まって水無月の背後から襲いかかった。
「調子に乗りやがって!!」
男が叫んだ。元々部屋が狭かったせいで、水無月は振り返りざまに肩を掴まれ壁に押し付けられた。その刹那に、ユイの目の前で、虫唾が走ったかのように水無月の表情が激変し次の瞬間には男の右腕が地面へ、左腕が宙へ舞っていた。
「貴っ様ぁあ!!」
水無月は叫ぶと一歩引いて吹き物を男の顔に投げつけ、素早く刀を一閃し振り回した。男の顔に投げつけられた拭き物は真っ赤に染まり、男は体中傷だらけで倒れた。「はぁ・・・はぁ・・・はぁ!」
水無月は息を整えると、扉の方を見上げた。逃げ出そうとしたもう一人の男の顔を掴み、忍び刀を振り下ろした名無しが立っていた。
「水無月様!お怪我は!?」
名無しが問うと水無月は冷静になって答えた。
「ああ・・・汚されたが・・・大したことはない。拭き物をくれ、名無し。剣も、汚れた。」
「只今。」
名無しは即答し、忍び刀をしまうと空いたその手で拭き物を水無月に渡した。「この者はいかがなさいましょうか?」
「・・・。」
水無月は押し黙った。「放してやれ。」
「承知。」
名無しは男を解放した。男は怯え去っていった。
「名無し・・・。」
水無月は名無しに近づき、その腕を取った。
「何でしょうか?」
名無しが言うと水無月は照れ隠しし、顔を逸らした。
「いや、何でもない。少し・・・二人にさせてくれ。それと彼女の着替えをとってきてくれまいか。」
「承知しました。」
名無しはそう答えると水無月の手からすっと離れ、去っていった。
「さて、」
水無月はユイの傍でため息をついて壁にもたれた。「奇遇・・・だな。まさかとは思っていたが・・・例の忍がお主だったとは・・・。」
「こっちこそ・・・」
ユイは自分がイスカの間で百舌にとがめられたのを思い出す。「残念です。」
「相変わらずだな。お主、本当に忍なのか?」
水無月にそう言われ、ユイは言葉につまった。「先程も、忍の割に・・・。」
一旦言葉につまり、水無月は続けた。「だが、それで良いのだ。お主は女としての誇りを持っている。それは大切なことだ。今は男が大きな顔をして女が好きな様にあしらわれる時代だ。だがな、私達には男にない誇りがあるのだ。私達女が、唯一堂々と対抗できるものだ。」
水無月は語った。「私達が大事に、本当に恋する者が現れるまで誇っていくもの。それ失くしては、私達は単なる下僕だ。誇りを捨て、諦めるということは弱者の行為だ。」
「弱・・・者、」
ユイはつぶやいた。
「そんなお前だからこそ、私は問いたい。」
水無月は壁から背を離して向き直った。「忍も・・・恋はするのか?」
ユイはしばらく押し黙った。そしてユイは水無月の意図を察した。
「・・・はい。少なくとも・・・私は・・・。」
「では・・・想いとは、忍に伝わるのだろうか?」
第九話 ―続―