燕 第十四話:飾り 第一節――――― ―追憶― 「水もってこい!」 深夜遅い刻、月明かりすら差し込まぬ薄暗い一室の中、一つの提灯が奇妙な明るさを放っていた。一人の男が叫ぶと奥から別の男が水一杯の樽を持ってきて、部屋にいた少女に容赦なく水を浴びせた。提灯の明かりに照らされた彼女の姿は無残という言葉の他、当てはめうる言葉があればそれは悲惨、惨め、哀れであろう。縛られた手首は天井から吊り下げられ、小柄な身体には無数の傷とあざの上に血と水が混ざり合って足元へと流れている。おそらくその場で何が行われているか、事情を知らぬ者から見れば誰でも言葉を失くし、人の所業とは思えぬと心でつぶやくだろう。少女は人としての扱いをされていなかったと言えよう。 「おい・・・本当かよ・・・」 少女が全くの反応を見せないどころか、息すらしていないことに気付き、男は少しばかり驚いたような、しかし全く罪悪感のない態度でつぶやいた。 「おいおい、お前殺っちまったのかよ?」 隅で酒を手にしていた男が立ち上がり少女へ近づくと、酒の瓶を少女の背中へと叩き付けた。粉々に瓶が砕ける音が響き、続いて畳に血の滴る音が聞こえたがその場にいる誰もが動じることは無かった。 「もう鳴かなくなっちまったか。」 残念というより、つまらなそうに男は言った。 「やべぇな〜」 竹刀を手に持った、最初につぶやいた男が頭を掻いた。 「何がやべぇんだよ?」 酒飲みの男は少女の正面へ回ると尋ねた。 「大体、ここに回した時点で上はこの小娘から何か聞きだせるかなんて期待してねぇんだよ。」 「そうかいそうかい、で、どうするよ?」 「捨てておけ。」 少女は土砂降りの雨の日に森の中に捨てられた。どれくらいの刻がたったかのどわからなかったが、そんなことはどうでも良かった。彼女はしばらくして息を吹き返し、無意識のままに上体を起こす。息を引き取ったのも全ては死んだと思わせこむための術だった。大雨によって血と傷口が洗い流され、体中の傷跡とあざはその裸体の表面で白く目立つ。荒い、不規則な呼吸をしながら少女は真上を見上げた。 仲間は無事逃げ切れたのだろうか、指定位置まで行けばそこで仲間は待っているのだろうか、助かったのだろうか、苦痛から解放されたのか、彼女にとってそんなことは全てどうでもよかった。自分の身に起きたことすら全く案じず、仲間の無事などどうとも想わず、ただ彼女の念頭にあったこと、それは自分が役目を果たしたか、それだけだった。当時、彼女はまだ十六だった。彼女が妊娠したことが判明したのは丁度一ヵ月後のことだった。 ―「巣」― 燕は一人、林の中にある修行場にたどり着いた。だがそこには先客がいた。当ても無く彷徨って来たとも言えるが、そこに誰かいるということはいささか燕には気がかりであった。何故ならまた一人、修行にただ明け暮れようかどうしようかと悩んでいる所であったからだ。悩むのも、修行中にアンに叩かれたのが一昨日の晩のことだったから。 最も、今の複雑な心境を相談する相手もいない。百舌とアンはイスカの間に昨夜から篭りっぱなし、リュウはいつの間にか遠出しており、忍と呼ぶに値する訓練も経験も積んでいないランに話すつもりはない。 最近接触の多いセイが最も適任だと燕は感じているのだが・・・今は、今はセイに相談するわけにはいかない、燕はそう断定していた。燕は気を紛らわそうか、否、紛らわせるかと思いつめてここに至る。 気取られぬよう離れた位置から音を頼りに先客の姿を覗く。先客は熱された砂利に、ひたすら両手で突きを入れている。それも尋常ならざる速さではあるが、気がかりなのはその突き方。水無月の時を思い出すのは何故だろう、その者が突く形相、どこか見覚えがあるが水無月のそれではない。それにその先客は朱雀だった。 「(奴なのに・・・なんで、こんな気持ち・・・)」 見覚えというよりは、親近感らしきものを感じ取っていた。 「(あいつは、私から奪ったのに・・・)」 朱雀が憎かった。憎かったはずなのに今は何故かそんな気持ちでない。ここ数日、さまざまな事が起こったせいだろうか。 「なっ!」 燕はそのとき目を見張った。 「朱雀が・・・」 泣いている。気のせいだろうか、目を凝らして確認しようとした時、丁度朱雀は水で顔を洗っていた。 「よっ、燕ちゃん・・・」 後ろから声が掛かって振り返るとそこにはセイが笑顔で立っていた。 「どったん?」 普段の態度だが、どこか声に寂しさが現れている。笑顔にも、元気がないというべきか、むしろ仮面をつけたような表情だった。燕はふいに悲しくなった。 燕のその悲しげな表情を観たセイは顔色を変えず、練習場の方を見た。 「やっぱここね、朱雀は。」 そう言われて燕は朱雀に視線を戻す。朱雀は深く、しかし荒い呼吸をすると引き続き砂利を突き始めた。 「あれ、どう表現すると思う?」 表情一つ変えずにセイは尋ねた。 「荒れてる」 燕はつぶやいた。では朱雀の荒れている姿に親近感があったというのだろうか、と燕は思った。 「そっ。正解。」 セイは燕を見据えて言った。 「八年前も同じだったさ。」 「八年前・・・!」 燕はセイに向き直った。 「そっ、」 セイは頭を傾げて続けた。 「詳しい事情は知らないけどね、朱雀、あれでアイツ、結構責任感強くてね、その上自分で抱え込んじまうから。昨夜の事」 急にセイの声に影が掛かった気がした。 「自分のせいだと思ってんのさ。荒れてる奴は、誰かに心を支えてもらうことが必要なんさ。」 「・・・。」 燕はなんと言えばいいのかわからなかった。燕からすれば、今最も支えが必要なのはセイじゃないのか、そう思ったから。にもかかわらずセイは・・・ 「だから、俺が支えてやんないとなって思ってね。」 自嘲してセイは燕を置いて歩き出した。去っていくセイに対し、燕は身体が震えた。最後まで表情一つ変えなかったセイが、むしろおかしい。いつもなら飄々と顔を変えるというのに。 「セイさん・・・!」 燕は叫んで振り返った。セイは足を止め、頭の上で手を組むとゆっくりと身体を横に、燕へと向けた。表情がまた変わってない。 「何?」 笑顔でセイは言った。引き止めてしまったが、燕はなんと言えばよいか未だにわからず、ただ震えていた。セイは一瞬目を見開くと、頭を傾げて言った。 「燕ちゃんは悪くないから。」 寂しかった、その一言は寂しく聞こえた。セイはふと燕の後方からこちらに向かう影を見てつぶやいた。 「そいや、リュウの奴いないんだよなぁ〜、肝心な時に。」 「?」 急なセイの発言に燕は考えた。わざとらしく浮かべた笑顔と発言、一体何を意味しているのだろう、と。その答えだろうか、振り返ると後方にこちらへと駆けて来るガクの姿があった。 また振り返って背を向けたセイは一言言った。 「燕ちゃんこそ、誰かに心支えてもらうのが、必要だぜ。」 「・・・セイさん」 燕はセイの後姿をただ眺めた。何故だろう、その後姿だけでセイの悲しさが伝わってくる気がした。セイの最後の一言。 「私・・・」 結局燕はセイを支えるどころか、逆にセイに支えてもらった。そして教えてもらった。 「(そう、心の支えが必要なのは私・・・)」 燕は薄々と感じ始めていた。何か、まるで鎖のようなものが自分の心を縛り付けている、そのせいでうまく自分の心境を整理できない。 「燕!」 久しぶりに間近で聞くガクの声に燕は振り返った。 「どうしたの、ガク?」 向き直って尋ねるとガクは少し驚いた顔をした。なので燕は返事の代わりに少し困った顔をした。 「いや、お前が、その、俺に話・・・」 ガクは顔をそらしながら答えようとして止めた。 「なんでもない!そうじゃなくてだ・・・、」 ガクは真剣な顔して言った。 「無事だったか!」 ガクらしい、と燕は思った。 「うん・・・私は、」 燕は目を逸らした。すると間を置いて、ガクが燕の両肩を掴んだ。 「しっかりしろ!心が負けちまったらどうしようもないだろ、もっとその・・・」 ガクは急にまたそっぽを向いた。 「元気、出せよな。」 そんなガクの姿を眺め、燕は微笑ましくなってしまった。そしてくすくすっと笑ってしまった。 「な、お、お前!何が可笑しい、え、燕!」 「いや・・・」 燕は口元に手をやって笑いを止めると、目は未だ悲しそうなものの少し明るくなった表情で言った。 「ありがと、ガク。私のこと、名前で呼んでくれたね。」 「そんな、俺は別に・・・!」 ガクは頭を掻く、がふと何かを思い出したように急に顔を向きなおすと言った。 「そうだった、燕、ちょっと来い!いや、絶対来い!」 ガクは燕の手を取って急に走り出した。 ―冬月亭― 「はああぁぁぁ―――――――」 午後。 昨夜の騒ぎを聞きつけた奉行相手に朝早くから「金目当ての賊が侵入し、睦月を殺してそれに対し応戦した」との説明をし、なかなか信じず辺りを見回ろうとしつこい彼らを追い返すので一刻が過ぎたことに対し長月は怒りにまかせて剣、玄月刀を振るっていた。昨夜の一大事のほとぼりがまだ自分の中では冷めていない、収まっていないというのにもかかわらずその刻を与えることもかまわずの押しかけてくる奉行達、それに対しろくな手回しもできぬ睦月の部下、知らぬ間には名無しという戦力を奪われ、事の真相を確かめようと水無月に声を掛けても部屋から一歩も出なければ返事すらしない。神無と斬はどうやら町中で派手に一戦やらかしたらしく、何より睦月という後ろ盾を失ったことが大きい。 「くっ・・・!」 顔を真上に上げ叫ぶ。 「あああぁぁ――――!!」 巨大な刃は宙を切り裂き鋭い音を響かせる。 「師走様に、どう申し開きすれば・・・!」 剣を振るう手を止め、呼吸を整えながら長月はつぶやいた。汗で濡れた長髪が顔を覆い隠し、歯軋りする口元だけ見える。実に悔しそうに表情を震わせながら長月は立ち尽くしていた。 「白髪ボウヤ」 急に背後から声がかかり、長月は表情をなるべく抑えてから振り返った。 「貴様!」 「昨夜何があった?教えろ。」 長月の返答を意にもせず神無は聞き返す。その態度に腹をたてた長月は身を乗り出した。 「俺が話そう」 そこへ二人の間に仲裁を入れるようにして文月が声を掛けた。気付けば二人とも同時に斬り捨てられる間合いに何事もないように立っていたことを考えると、文月はやはり侮れない男だと二人は思う。 「貴様・・・、」 神無は気に食わぬ顔で文月を見て言った。 「いつ戻った?」 「今朝、卯月と共に正面をくぐって戻ってきたが」 文月の一言には棘があった。実際、卯月が戻ってきたのを長月も、そして同時に斬と共に戻ってきた神無も目撃している。ただし、二人とも文月の姿を見た覚えはない。 「道理で忍に入られるわけだ。最も、貴様等だけ残しておくこと自体、俺は最初から馬鹿げた話だと思っていたがな。」 「くっ・・・貴様何様のつもりだ!」 頭に血がのぼった長月は剣を手に一歩前に出た。彼の一歩が地面についたその時彼は足を止めた。彼が一歩踏み込む間に文月が刀を抜いて喉に刃を突きつけていたのだった。 「その言葉、返すぞ」 文月は長月に確認するよう慎重に言葉を述べた。 「貴様に合わせてやる義理などない。俺は貴様の師が金を払ったから手を貸している。それに俺がこの場に居合わせている義理は、貴様等の敵が奴等であるからだ。」 冷や汗が長月の額を流れる。と同時に徐々に長月は冷静さを取り戻していった。 「で、何故貴様が知っている」 黙って一部始終見届けていた神無が尋ねる。 「情報収集が、忍の基本だからな。」 刀を鞘に収めると、文月は一言そうつぶやいた。 ―「巣」― 「ほら、ここだ」 しばらく歩き、屋敷方へと戻ってくると渡り廊下をガクは燕の腕を引っ張って来て止まった。 「ちょっ・・・ガク!」 燕はガクの引っ張っていたガクの手を振り払った。何となく、昨夜セイに肩を触れられたときのように、少なからず抵抗を感じる。 「何・・・一体?」 「その・・・なんだ、とりあえず」 ガクは燕の腕を再度掴もうとするが燕はさっと腕を引いてかわす。ガクは困った顔をしてから燕の後ろへと歩くとその背中を押した。 「行って来い!」 「あっ・・・」 燕はそのまま押されて数歩前進すると、振り返った。 「ガクッ!」 燕は鋭い目つきをして振り返った。が、ガクは既にいなかった。少々自分らしく振舞えずにいた気が今になってした。組み手や打ち合いをしても常にガクに跪かせていた経験からか、ガクに引っ張られたり振り回されることに対し妙な対抗意識が働いたようだ。一人、気を取り直した燕が廊下でガクがいた所を眺めてたたずんでいるとふいに優しい風が吹いて彼女の髪をなびかせた。すると丁度風が吹き止む直前で声が掛かった。 「燕」 柔らかなそっと心に触れるような、とても純粋な掛け声。 燕はそれまで立っていた位置を動かず、頭だけ声の主へと振り返る。畳の小さな部屋。 一昨日まで燕も長い間座り込んでいた部屋。違うのは外の景色が一昨日と全く逆で、雪降らずの晴天であり、またそこに寝込んでいたはずの声の主がそこで身体を起こして燕を見つめていることだった。 二人の間にまた柔らかな風が吹いた。ユイはいつも束ねている長い髪を下ろした状態で足を崩したまま上体だけ起こして、燕のことを前のように見つめていた。そう、いつも心配そうに見守りながら何事もない時やそんな時間はいつも安心した暖かい眼差しで見つめてくれる、そんな何も変わらないユイの姿だった。 まるで二人だけの時間、空間を感じさせるように外から中へと吹き付ける風が止むと同時にユイは止まった時を再生するようにつぶやいた。 「おはよ。」 「ユイ・・・」 燕はあまりもの驚きに表情が固まってしまった。ゆっくりと振り返り、両膝をつくとゆっくりとユイの方へと前進する。ユイの目の前まで来ると燕は背を起こして同じ高さでユイを見つめた。 「生きて・・・無事で・・・」 燕の声は震えていた。今まで燕が、八年間もの間忘れていた何かが心の底から湧き上がってくる。それは涙となって現れた。徐々に和らぎ、崩れていく表情。言葉にならない声を出して、泣く燕を、ユイは抱きとめ、その背中を撫でながら・・・静かに微笑みながら涙した。 「会いたかったよ、燕・・・」 ―冬月亭― 名無しは死んだも同然の状態にあった。忍の殺しの技、それは的確だった。皐月独特の応急処置によって出血は可能な限り抑えたが、それでも出血量は夥しい。水無月が戦い終えた頃には名無しは既に息絶えてしまっていた。現実的に言ってしまえば息を吹き返す可能性は限りなく零と言える。むしろ、昏睡状態か死んでいるかですら不確かな状態だった。 皐月はひっそりと音を立てずに障子を開ける。渡り廊下で足を崩した状態で中身を覗き込んでいるその姿はまさにこそこそという言葉が適応できると言える。 「リリ・・・」 皐月は小声でつぶやき、障子を閉めた。水無月は暗い部屋の中、昨夜から寝ずに名無しの傍で正座し続けている。一言も口を利かず、ただただ沈黙しているだけ。障子の隙間から観えた水無月の姿は彼女の心を痛めた。 もちろん皐月なりに水無月に声を掛けてみた、普段人に正面から向き合わない彼女にとっては勇気を搾り出さないとできない行動だった。だが空回りだったのか、一人にしてくれと水無月に拒まれた。 一人にしてくれ・・・水無月は既に名無しの死を受け入れているのであろうか。だがたしかにあの姿は悲しみから逃れるために希望にすがっているような姿ではない。むしろ何かに対し、真剣に目の前から向き合っている姿に見えた。何か、考えているのだろう。もっとも、それ以上皐月にはわからない。水無月と名無しの仲、それは皐月がリリとなる遥か前からあったものであろう。だからこそ、皐月がどうすることもできず、リリなのに自分だけ蚊帳の外のように感じられた。孤独。皐月の恐れる感情が彼女を落ち込ませていた。 「おい、貴様」 その声に驚き皐月は障子から顔を出して見上げた。普段の不機嫌そうな顔で見下ろす神無がいたが、皐月から見上げればそれはおっかないと言えた。 「ふえっ!」 飛び上がって皐月は廊下を逆向きに逃げ出す。が、とっさに振り返った途端、渡り廊下には何も転ぶような物は無いのにも関わらず、皐月は自分の足に足を引っ掛け勢い良く倒れた。 「ひゃっ!」 だが皐月の身体は丁度通りかかった者によって支えられた、というよりも皐月の頭が勝手にその人の胸に直撃したとも言える。 「っ・・・!」 痛みを堪える声が漏れる。恐る恐る皐月が顔を上げるとその人は少々驚いたような声で言った。 「大丈夫ですか、御嬢さん・・・?」 「・・・」 皐月は誠実さに満ちたその人、卯月の顔をしばし見つめてうなずいた。 「そうですか、それは良かった・・・ぐっ!」 安心した矢崎、卯月は口を抑えて前のめりになった。激しく咳き込む。あわわわわと皐月が慌てて頭を下げる。 「平気です・・・これしきの事、良くあるこ・・・」 そう言って上体を起こした次の瞬間、卯月は激しく上体を倒して吐く。卯月の手にはおびただしい血で真っ赤に染まり、廊下に多量の血がこぼれる。 「おいっ・・・」 さらに慌てる皐月に対し、神無も見かねて声を掛ける。 「いえ、何のこれしき・・・!」 卯月は痛みを堪えつつそう言って・・・倒れた。
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