燕 第十四話:飾り


 

第二節―――――

 

―追憶―

神無は昨夜のことを思い出す。神無は二つ、今まで感じたことのなかった感情を覚えた。

 

一つ目。神無は百舌達との死闘の果て、百舌に脇腹を斬られた。致命傷には至らなかったものの、冬月亭にはとても戻れる身体ではなく、出血が続けば命も危うかった。だが神無は生きたいという渇望を覚えた。生まれたときより忍、死ぬ時も忍。任であれば身体を捨て、命令であらば命を掛け、生きようと思ったことも、生きているとも感じたことがなかったはずなのに。忍としてではなく、否忍としてであったら死を受け入れていたのかもしれない。

 

そのはずなのに、純粋に、人として、神無は『生きたい』、という渇望を覚えたてのだった。

神無は手を伸ばした。掴めなかった何かを掴むように、否、掴みそこなった何かを掴もうとするかのように。丁度手の先に、闇に生きる自分にとっては眩し過ぎるような月明かりが光っていた。人として生きるということはこんなに明るいのか、それとも眩しいのだろうか。

 

が、そのときだった。『闇』の存在、が神無から光を遮断した。その時神無は悟った。次に起こりうる事象を。それは紛れもない、死そのもの。『闇』は己の宿命、その世界では死など至極同然。にもかかわらず、血塗られた刃が振り下ろされたそのとき、神無は初めて、二つ目のその感情を覚えた。『死にたくない』という感情を。

 

死など、役目を果たす過程の一つ程度にしか感じたことがなかったはずなのに。斬の刀が頭の真横で静止したとき、神無は知らぬ間に恐怖で身体が震え上がり、閉じた歯は軋み、冷や汗で身体が冷え切っていた。初めて知った。死の恐ろしさを。

 

その直後に斬は叫んだ。その叫び声は過去を振り返り惜しむ声、不甲斐無い自分に絶句する発狂。相手の心境をあらゆる些細な動作や声の調子で読み、次の一手や敵の試みを読む、忍として身に着けたその能力ではない。相手の哀しみをそこまで深く感じ取ることなど、『闇』に生きる上での携えた能力ではできようもない。さすれば・・・感情に振られてしまい、不完全な『闇』となるだろう。なら自分は不完全だというのだろうか。

 

幾度とも振り下ろされる斬撃。

 

「やめろ―――――――――!」

 

神無の叫び声に斬は刀を振り下ろすのを止めた。すると悪態をついて斬は刀を納め、神無の身体を両腕で持ち上げると、両手で担いで冬月亭まで戻ったのだった。神無の身体を渡り廊下に置くと、周囲の目もあってか、斬はそのまま去っていった。

 

何故斬は自分を殺さなかったのか。殺すことに生きる意味を見出す、『闇』に生きる者が何故あの場で戸惑ったのか。しかしそんなことはどうでもよかった。斬に担がれながら神無が歯を噛み締める程気になったのは、何故死を恐れたかだった。忍として生を受け、忍として育ち、忍として生きてきた。人として育った覚えはない。だが自分は今、忍であっても飽くまで自分は人間だと思い始めている。ただ、未だに人間であるということの定義がわからない。

 

では『死を恐れる』ことが人間であることなのだろうか。否・・・。自分は『死を恐れた』のではないかもしれない。

神無は思い出す。忍として過ごした日々を、里が焼かれ組織が壊滅した後の娘との日々を。決して充実した日常ではなく、されど途方に暮れるような毎日ではなく、むしろどちらとも言えない、『無』に等しい生活。生きている意味などなかった、『無』に等しい人生。

 

主を失っても新たな主を求め、組織から解放されてなお忍として生きようとした。そこにどんな『意味』があったか。答えは『無』そのものだ。故に、死ぬこともまた『無』であったはず。生きることにも死ぬことにも意味はなく、気付くと知らぬ間に自分は暗闇の中『無』に挟まれていた。では忍として任務を果たすことは生きてもいない、死んでもいない、中途半端な存在なのだろうか。不完全な人間、誰も知らぬ場で舞うからくり人形。だから、『生きている意味』などなかった。だからこそ・・・『死ぬこと』など、最初のうちは可能性としか考えていなかった。

 

だからこそ、今更『死を恐れた』などと言い切ってしまうには虫がよいと言うものかも知れない。そう、死を恐れたのではない。そうであったとしたら、その直前に感じた感情と矛盾する。言葉の意味合いとしては矛盾しないのかもしれない。『死を恐れる』のと『生きたい』とは一種の同義語と呼べるものかもしれない。だが、神無にとっては違った。あの時覚えた渇望。初めて感じた『生』への渇望。それは『死にたくない』という一言で片付けられるほど自分にとって軽いものではなかったのだった。

 

 

神無は何のために殺すの

 

 

娘の言葉がふいに蘇る。おそらく、そうだ。『死にたくなかった』のではない。生きたかったのだ。

 

 

―冬月亭―

「御気を煩わせてしまった様子・・・心遣い感謝致す」

 

卯月は神無の秘薬が入ったお茶を一口飲むと、礼儀正しく感謝の意を表した。卯月の間は障子が開いており、風通しの良い場所に位置し、部屋の中も簡素でなるべく清潔な状態を心がけているように思えた。身体を気遣ってのことだろう。

 

「これで私は病の身。本来ならば十年も昔に死んでいたはずの身、この刻までなお生き長らえているとは・・・。自分のことくらい、自分で把握しているつもりです。そろそろ、潮時なのでしょう。」

 

「生きたくはないのか?」

 

壁に背もたれした神無は顔を背けながら尋ねた。

 

「死を、恐れてはいないのか?」

 

「私は・・・二十年も前から病に侵されていました・・・」

 

湯気を上げる茶碗を手に、卯月は真剣に語り出す。

 

「妻も同じ病に侵され・・・七年前・・・他界しました。」

 

卯月の言葉ははっきりしている。悲しみや過去に対する後ろめたさはなく、それをしっかりと受け止めていることが覗えた。

 

「妻は最後に私に言ったのです。」

 

 

私の愛する雨龍らしく、貴方らしく堂々と生きて。

 

 

卯月の脳裏で妻の最後の言葉、決して忘れられない言葉が蘇る。

 

「私らしく生きろと・・・」

 

卯月に頭突きを与えて吐血させた張本人である皐月はと言うと、話をどう受け止めているのかひたすらうなづいている。

 

「私は丁度十年も前、戦場で友と散っていたかもしれない身。戦場で散った友が私に最後に望んだ事も、また同じ。」

 

卯月は言った。

 「私は死を恐れているのではありません。ただ・・・私らしく生きることを全うせぬまま死ぬ事が怖いのです。」

 

卯月は言い終え、お茶を啜る。口をぽかんと開けてうなずく皐月は、その動作に習い、お茶を啜る。神無の脳裏に一瞬よぎったどうでもいい疑問、そういえば何故皐月にまでお茶を注いでいたのだろう。

 

「自分らしく・・・」

 

神無はつぶやいた。

 

「(・・・生きたいのではなく・・・全うできないまま死ぬのが怖い・・・。)」

 

神無は納得した。

 

「(そう・・・。私は・・・あの子を殺さぬまま、死ぬのが・・・怖い)」

 

 

―「巣」―

 

「燕・・・」

 

ユイの前に正座して閏んだ瞳を拭う燕を見つめ、彼女の心は温まった。

 

「よかった。」

 

首を傾げながらユイは純粋で綺麗な微笑みをこぼし、つい思っていたことは口にしてしまった。

 

「えっ?」

 

拭う手を休めて、燕がユイを見た。

 

「だって」

 

ユイは手を口元に持ってきてくすくすと笑った。

 

「燕が・・・泣いてるんだもん。」

 

そう言われ、燕は自分の両手を見下ろした。

 

「(泣いてる・・・私が。なんだろう、この感じ・・・。)」

 

燕は不思議な気持ちを感じていた。心がどこかすっきりしている。嵐が去った後の晴天のような、落ち着き。当たり前のような感情であって、何故か妙に懐かしい感覚。懐かしいというより長い間、忘れ続けてきたもの。振り返ってみれば、最後に泣いたのはいつだろうか。ユイが斬られたとき、ユイが死んでしまうと思ったときは本当に自分のことであるように恐怖した。もう何もかも失ってしまう、そんな絶望。しかしユイは奇跡的にまだ命をつなぎとめている。その事実が燕の理性をつなぎとめていた。たしかにあのとき泣いた。だが、考えてみればその前に本気で泣いたのはいつだろう。

思い出してみれば不思議なものだ。だいぶ、長い間泣いていない。悲しい、と感じたことがない。思い出そうと思っても、焼きついている記憶は忍の役目を果たす己の姿ばかり。どれも、自分は不快な顔をしていた。どれも、命を奪った後の自分の姿ばかりだった。燕は眉をひそめた。

 

「(私は・・・)」

 

不思議だった。何故、今になってだろう。その自分の姿を思い出して思い返す。

 

「(私は殺すことを・・・」

 

「燕」

 

ユイの声で燕は我に帰る。

 

「な、何、ユイ?」

 

つい慌ててしまった。

 

「聞きたいんだけど・・・」

 

ユイは少し顔を引き締めて言った。

 

「水無月さんのこと、殺そうとした?」

 

「それは・・・」

 

唐突の質問に燕は驚きながら、言葉に窮した。たしかに水無月のことは憎くて、殺したくなった。だが次第に刻が経つに連れ、冷静さを取り戻していくうちに悲しみとない交ぜになり、結局自分は何をしたいのか、自分の中のわだかまりは何なのか、そう、整理がつかなくなった。そして結果は

 

「私は・・・」

 

燕が名無しを水無月から奪うということに。

 

「やっぱり」

 

ユイは呆れたといわんばかりに顔を振ってみせたが、そんなわざとくさい動作はご愛嬌。

 

「復讐しようとしたんでしょ?」

 

燕は困った顔をしてうつむいてしまった。まるで親に叱られ反省する子供のような顔をしている。なかなか見られない、燕の少女らしい一面。ユイはそんな燕を見て、優しいため息をつくと言った。

 

「私のために、」

 

その一言が燕を考えさせてしまう。誰のための復讐か、何のための復讐か。ユイが無事だったという安堵によって今までの複雑な感情こそ解かれたものの、どうやらまだ冷静に考えねばならない、そう燕は思った。そう、今度は冷静に、自分の気持ちを整理しなければならない。

 

「止めてよ・・・」

 

ユイは慰めるように言った。

 

「私、燕にそんなことしてほしくないから。燕は、人でしょ。」

 

「私は・・・」

 

燕はつぶやいた。ふとユイは燕の表情を見てみると、それは不安そうなものであった。不安というのも、どうすればいいかわからない、なんだかわからない、そう言った悩みによる不安だというものだというのがわかった。以前、ユイも悩んだ、そのときの姿、表情と同じに感じ取れたから。

 

「燕・・・」

 

「私・・・何のために・・・」

 

燕はつぶやき、顔を上げた。

 

「何のために・・・」

 


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